Column

葬祭コラム

おひとりさまの看取り

 超高齢社会の特質は、単身化が著しく、単身世帯は未婚の子供との同居世帯数よりも上回りました。次には夫婦のみの世帯が多いわけですが、それもやがてはどちらかが逝去すれば、そのまま直に単身世帯の増加になります。
 その単身世帯において、だれにも気がつかれないまま一人で死んでいくことが孤独死といわれています。
 ひとり暮らしとは言っても、身寄りがないわけではなく、自分の意志でそのような気ままさで人生を送ろうとしている人が多くいます。元気な間は問題がありませんが、ちょっとした疾病で寝込んだり、それが急変したりしたときに、かならず誰かの助力を乞うことになります。その気ままさが大変自分勝手なことになりかねません。そのことを重々理解しなければ無責任で身勝手な考え方と言わざるを得ないでしょう。
 また、考えてみれば、病院のICUなどで、身近な人の看取りがなければ、ある意味それも孤独な死かもしれません。超高齢社会の孤独死、孤立死といわれているものは単に、一人暮らしという社会環境の変化よりも、死を取り巻く私たち自身の意識の変化でもあると思います。
 さてそれに対応して、どのような対策を講じることができるのでしょう。
 警備会社などでは、駆けつけサービスや一部保険会社などでも同じように「見守りサービス」などが提供されています。また家電製品の中には、例えば電気ポットなど一日中電源が入らない場合、それがあらかじめ指定した連絡先のほうへ知らせが届き、そのことから所在の確認や現況を知ることができます。携帯電話の一部でもワンタッチサービスで、指定した複数の相手先に連絡がいくというのもあります。
 このように、高齢社会に際していろいろなセーフティネットが拡充する一方で、それを普及させるための世代間コミュニケーションが行き届かないような気がします。
 せっかくシステムが敷設されたにもかかわらず、それを使いこなせない人も多く見かけます。
 余命宣告や終活などの生前対応もいろいろある中で、家族のみならず周りの人との相談ができる環境が何よりも安心でしょう。その役割をできれば寺院や僧侶など、その地域に馴染んだ存在にゆだねたいと思っています。
 なぜならば、そこにお墓があり、供養という観点から世代間のコミュニケーションがとりやすい場所になることでしょう。
 かつて、仏教ホスピスなどの言葉もありましたが、無理をしない自然な形で信頼のできる僧侶と話ができると安心かもしれません。